完璧な存在
今、私が何を信じているかといえば、完全で完璧な内なる神を信じています。
私の内には完璧な神が宿っているという気持ちが、今私を支えています。
内なる神は完璧なので、私のすべてを支配して、すべてを行なっています。
いつでも完璧な神が私を満たしているのです。
なので、私は何も考えないようにしていれば良いんです。
思考を止めようとするだけで、良いんですね。
実際に思考を止められるかどうかも悩む必要ないです。
できてもできなくても良いんです。なぜって、始めから完全で完璧な神がいるからです。
私はその完璧な存在を意識しているだけで、自分の考えでそれを邪魔しなければ良いんです。
この方法は楽ですよ。
今まで実行してきたどんな方法や祈りの方法よりも、はるかに楽で、しかも心が変化します。
完全とか完璧とかは、本当は思考では考えられないものだからですね。
これが完璧なんだ、って考えているつもりでも、知識や経験、つまりは記憶でしかないです。
なので、完全や完璧を思考で理解できる人はいないんですね。
そんな存在を認識する。認めてそれを信じる。信頼するのが大切です。
で、私は命とか体とか心とかを考えます。
私たちが考えて、命、体、心、等を作り出せるのか?。っとね。
これらを作れる人間は存在しませんね。
なのに人として私たちは存在しているんです。
存在しているのに、ここに存在している理由や原因はまったく理解できません。
私にとっての神の存在は、この未知の領域の力、命そのものを指しています。
なので、生きている以上、神とのつながりを否定できないと考えています。
命の神秘の源である、神の存在を認めて、これらを作りだした、至高の英知を認めています。
ですから、私は思考を止めようとするだけで、すべては最善の結果になると信じるのです。
考えることを止めれば、最善の方法で、最善の結果が実現されるのです。
命や体の構成を考えられない人の思考を止めてしまうのです。
すべては、完全で完璧な神が行なっていると宣言します。
そして、私は思考を止めます。
思考を手放します。
それが、最も神の力を発揮できる方法だと知っているからです。
こんな、考えで進めています。
これが効果的でした、今の私の中心的な実践になっています。
始めは、この考えには無理があるように思ったり、神みたいな存在を認められないなんて思いました。
ですが、やり続けてみるというか、まず思考を止めようとすると、心が楽になるんです。
思考って、心に負担がかかっているんですね。
特に、悩みや苦しみが大きいと感じるときは、効果的です。
思考を止めよう。って考えるだけ。
「この思考を止められる?」って、自問するだけ。
それだけで、心が少し楽になる。
だったら、もっと思考を止めようとしてみる。
もっと、心が楽になる。
だけど、何も考えないことにも不安を感じる。
じゃあ、完璧な存在が完璧な現実を創るって考えよう。
命の不思議を考えると、それはあり得ることだって思える。
少なくとも、命についてなんて自分では考えることもできない。
だから、自分よりも上の存在が働いているんだってね。
こんなに理屈で考えなくても良いんですが、私は考えてしまいました。
結局は、思考を止めて、無心になれば良いんですけどね。
その無心、空って心境が難しいんですね。
その心境を実現するために、神様って名前をかりるんです。
それを真理だと思える人はそれで良いし、思えない人は名前をかりるんですね。
自分がそれを経験したときに、神じゃないと言えばいいですから。
私はその心境を垣間見た程度ですが、神と言っても矛盾や違和感を感じません。
(以前は違和感を感じていましたが・・・)
今は、自分の中に神が存在していることを、信じられる自分がいます。
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